プルシェンコの生い立ちがヤバい
プルシェンコ氏の父親は大工をされていて、長男として生まれています。
両親は出稼ぎの鉄道建設労働者で、一家は木造の貨物列車を改造した、トレーラーハウスで生活していて、一般的な家庭に比べて決して裕福な暮らしではなかったそうです。
プルシェンコ氏は、生後9ヶ月で走り出すなど、運動神経の発達した子供でしたが、虚弱体質で、シベリアの過酷な気候もあり、肺炎にかかり入院したこともあり、家族は夏の気候が温暖な故郷に引っ越しています。
4歳になり、体質改善の一環で、フィギュアスケートとロシア民族舞踊を習い始めていますが、当初はレッスンに通うためのバスに3駅も進まないうちに、具合が悪くなり何度も下車していましたが、徐々に体が鍛えられ、体調を崩すことはなくなり、活発な子供になったそうです。
元々運動神経がよく、スケートもダンスも才能を開花させ、両者の教師がレッスンの時間を取り合うほどでしたが、プルシェンコ氏自らの意識でスケート選んでいます。
1993年のソ連崩壊の影響で、地元に一つしかないスケートリンクが閉鎖されたのをきっかけに両親は普通の小学生の暮らしをさせようと考えましたが、当時のコーチが、元フィギュアスケート選手のアレクセイ・ミーシンの元に行くように進め、まだ幼かったプルシェンコ氏を手放したくなかったが、有望選手のスポーツキャリアを終わらせる権限は親には無いと強く説得し、ミーシンに託すことに同意されました。
プルシェンコ氏は11歳で親元を離れ、共同アパートの一角で生活されますが、アパートには昼間から酒や薬や賭け事に溺れる不特定多数が出入し、隣人女性は子供の同居人に構わず男たちを部屋に連子んだりしていて、見かねたミーシンは自分のアパートや自宅、振付師の家にプルシェンコ氏を住まわせていました。
1年後に母親がやってきて、一緒に暮らし始めますが、母親には町の労働許可がなく共働きだった一家の稼ぎ頭を失い、家族は更に生活に困り、日々の食べ物にすら困る生活をしていました。
しかし、14歳でプルシェンコ氏が世界ジュニア選手権を制し、それ以降プルシェンコ氏が一家の稼ぎ頭になり、16歳で貯めていた貯金と賞金を使い家族で暮らすためのマンションを購入し、家族で暮らせる様になったそうです。
決して、順風満帆とは言えない生い立ちですが、プルシェンコ氏は明るく陽気な性格で家族に対しても強い愛情があるそうです。
なので、血が繋がっていないヤナ・ルドコフスカヤの息子達にも分け隔てなく愛情を持って接することができるのしょうね。
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最後に
今回は、日本でも人気なエフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ氏ついて調べてみました。
プルシェンコ氏には子供が4人いるとありましたが、実子は2人で妻のヤナ・ルドコフスカヤの子供たちも自身の子供の様に可愛がっていました。
そして、実の子のサーシャくんと一緒に日本でアイスショーで来日しテレビ出演もされています。
とっも可愛いサーシャくんは、モデルもされていて将来が楽しみな子供です。
そして、母親であるヤナ・ルドコフスカヤはかなりやり手でロシアでは注目を集めていました。
プルシェンコ氏との結婚はお互いにバツイチ同士で、ヤナ・ルドコフスカヤには2人の連子がいますが、とても仲の良い家族の様でした。
プルシェンコ氏の生い立ちは、決して順風満帆ではなかったですが、家族の強い愛情もあり、その影響もあるのかと思われます。
今後も、世界で活躍し息子のサーシャくんの将来もとても楽しですね。
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