今回は山元香代子(やまもとかよこ)医師について調べてみます!
山元香代子医師は、アフリカ南部のザンビアのへき地で毎年500万円の私財を投じてまで貧しい人々を救う医師です。
山元香代子医師は、毎年500万円もの私財を投じてまで、医師として活動されているのかとても気になります。
そして、山元香代子医師の活動を「世界ナゼそこ日本人」にも取り上げられていました。
500万円の私財を投じ、自ら現地に行き医療を提供されているとは、一体どういうことなんでしょうか?
また、過去には、大切な人の死も乗り越えた波乱万丈な人生もあるそうです。
そんな、ザンビアのへき地で私財を投じて活動されている山元香代子さんについて調べてみました!
ではさっそく♪
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山元香代子(医師)プロフィール、経歴は?
名前:山元香代子
読み方:やまもとかよこ
出身地:宮崎県
出身高校:宮崎県立宮崎大宮高校
出身大学:自治医科大学
年齢:62〜63歳(2018年現在)
山元香代子医師は、幼い頃に体の弱かった兄に、たびたび医者が出張診療に自宅に訪れた医師を見て格好良いと思っていました。
しかし、医者になりたいと思っていましたが、実家は裕福な家庭ではなかったのです。
それでも、医者になりたいと思った山元香代子医師は、群馬県にある自治医科大学に入学されます。
自治医科大学は、卒業後9年間僻地で勤務をすれば、学費としてかかる1300万円のうち1000万円が免除されたそうです。
そうして、卒業後は地元である宮崎県の三大秘境の一つである、椎葉村で医師としての第一歩を歩まれます。
当時の住民は、経済的に苦しい中で、懸命に生活をされていて、山元香代子医師は日々の診療を通じて、人々のあたたかさや優しさにふれ、懸命に生きている人たちが少しでも幸せになれるように、医師として役に立ちたいと強く思ったそうです。
約9年間の宮崎でのへき地勤務などを含め15年、日本での地域医療に携わり、発展途上国での医療活動に関心を持ちます。
WHO西太平洋地域事務局医務官、JICA専門家として活動を行い、ザンビア滞在中にへき地医療の必要性を強く感じました。
そして2010年にザンビアで医師免許を取得し、2011年から巡回診療を始めています。
2015年には第43回医療功労賞を受賞されています。
主な経歴
- 宮崎県立宮崎大宮高等学校 卒業
- 自治医科大学 卒業(自治医科大学3期生)
- 宮崎県「県立宮崎病院」で2年間の初期研修
- 宮崎県椎葉村「椎葉村国民健康保険病院」で3年間の後期研修(辺地勤務)
- 「自治医大」で小児科として 勤務
- 宮崎県「県立日南病院」で小児科として 勤務
- 宮崎県日向市「日向市立東郷病院」で勤務(辺地勤務)
- 宮崎県「県立日南病院」で小児科として 勤務
- 宮崎県児湯郡西米良村「国民健康保険西米良診療所」で勤務(辺地勤務)
- 宮崎県椎葉村「椎葉村国民健康保険病院」で 10ヶ月勤務(辺地勤務)
- 義務年限を修了
- 自治医大「眞弓 忠」先生の研究室にて博士号取得
- 静岡県「静岡市立静岡病院」で 1年間勤務
- 新潟県「南魚沼市立ゆきぐに大和病院」にて勤務
山本香代子(医師)のザンビアへき地で活動する理由は?
WHOからアジアで働かないかと声がかかり、迷うことなく二つ返事で山元香代子医師はアジアで働くこと決めました。
山元香代子医師が育った、昭和30年代はまだ、戦争の影が残っており、日本人はアジアでひどいことしたと育ち、日本人であることが申し訳ない気持ちを抱いて、アジアのために何かをしたいと考えたのです。
アジアの様々な国で、戦争の話を聞き一生懸命働き誠心誠意向き合えば、人々はついてきてくれ、日本人でよかったと思えるようになったそうです。
ザンビア共和国で医療活動を始めたきっかけは、国レベルで腰を落ち着けて仕事がしたいと思い、アメリカのNGOから、ウガンダに山元香代子医師は渡りました。
しかし、郡のヘルスセンターへ行ったところ、スタッフがほとんど出かけており、人手がなく赤ちゃんが急死する現状に遭遇されました。
点滴の針が外れ、子供はなくなりそれなのに、薄ら笑ったような看護師も痛そうです。
スタッフが出かけていた理由も研修に出席し、出張をすると日当がもらえることもあり、ヘルスセンターは手薄になってしまっていました。
山元香代子医師は、医療スタッフの意識の低さに情けなくなり、いくらトレーニングをしても活かされない現実がわかり、臨床から戻って、モデルとなる診療所を作ろうと決意されます。
そして、次に派遣されたザンビアで行動を実行されました。
当初は、診療所を設立する資金がないため、車での巡回診療をする方法を選び、ザンビアで医師免許を取得されました。
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山元香代子医師は年間500万円を投じて活動!
ザンビアで医師免許を取得し、循環診療を始めていますが、年間500万円の活動資金が必要になったそうです。
山元香代子医師は、その500万円の活動資金を自ら出されていました。
日本に3ヶ月間病院で非常勤として働き資金を稼ぎ、その後3ヶ月間ザンビアで活動するということを継続されたそうです。
無償で働き、無償で薬を出されていたそうです。
そして、2012年にこの事情を知った有志の方が、活動を安定的に継続するために「NPO法人ザンビア辺地医療を支援を支援する会」を設立され、山元香代子医師は副理事に就任されています。
現在は多くの人から支援を受けながら、自身も3ヶ月毎に日本とザンビアを行き来し活動を継続されています。
ザンビアへき地での活動は相当なもので、ラウンドクルーザーに資材をのせ、スタッフと共に乗り込み、朝5時に出発。
舗装されていない険しい山道を越え、片道5時間かけていき、多い時には150人以上が診療に訪れるそうです。
1回の診療で、車の整備やカルテの整理、薬の調達があるため、1週間に1回行くことがやっとだと言います。
継続できているのは、スタッフと共有できる達成感だと山元香代子医師は言われています。
現地での山本香代子医師の活動を見てボランティアスタッフも巡回診療を実施している場所まで、歩いて3時間も4時間もかけて訪れるそうです。
活動に参加されていた日本人医学生が、ボランティアに「一銭のお金にもならないのになぜ何時間も歩いて活動に参加するのか」とボランティアに聞いたところ、「香代子が頑張っていて、共に働けるのが僕らの誇りだから」言われたそうです。
その言葉が、本当に嬉しかったと山本香代子医師は言われていました。
ザンビアでの活動される山本香代子医師ですが、その間に大好きだった父親が、ガンに侵され亡くなったそうです。
山元香代子医師の大切な人の死
山元香代子医師は父親をすごく慕っていました。
資金を貯め、単身ザンビアに行かれる時に、父親が理解し母親を説得されたそうです。
父親がなくなる数時間前に、電話で話されていました。
そして父親が伝えた言葉が、
「香代子は日本一の医者だ。・・豊かな人生は自分の心の中にあるのだよ。」
そして、2時間後に亡くなられたそうです。
山元香代子医師は、自分が日本一の医者であれば、父親をあんな死に方はさせなかっただろうと悔やまれました。
そして、何故もっと早く父親の異変に気づいてあげられなかったのだろうと、今でも悔やんでいるとありました。
山元香代子医師は、手紙と写真を肌身離さず持ち歩いているそうです。
いつも父親が見つめてくれると思うと、一生懸命やらなければと、力が湧いてくるそうです。
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最後に
今回はザンビアのへき地で貧しい人々を救う医師の山元香代子さんについて調べてみました。
山元香代子医師は年間500万円の資金を自ら集め現地の人々を救っていました。
現在は有志の方々が集まりNPO法人を設立され多くの支援が集まるようになりましたが、現在も診療以外にマラリア・下痢予防などの保健衛生啓発活動やコミュニティヘルスワーカーの養成を行っています。
2017年12月までに診療した患者の数は、27000人を超えているそうです。
そして、地域のスタッフの協力もあり、マラリアによる死亡者数も激減されています。
山元香代子医師の貢献度は、もはや計り知れないものと言われていました。
今後も、ザンビアに訪れる医師や看護師が安心して活動ができるようにいくらか報酬を払えるようになればいいと言われていました。
今後の山元香代子医師の活動を応援したいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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