内海桂子の旦那成田常也と24歳差初婚結婚の馴れ初めや子供は?遺産相続で息子と絶縁?死去後の終活も!

今回は、内海桂子(うつみけいこ)さんと旦那(夫)成田常也(なりたつねや)さんの年の差婚の馴れ初めや、子供さんについて調べてみます。

内海桂子さんは、10代の頃から舞台に上がりその後、音曲漫才で内海好江さんとコンビ組み活躍され、現在は漫才協会名誉会長です。

そして、内海桂子さんは2010年からツイッターも始めていてフォロワー数は46万人越え!

直弟子にはナイツやウッチャンナンチャンと活躍する弟子がいます。

内海桂子さんは、現在は96歳と高齢ですが、旦那さんの成田常也さんとは24歳年下の旦那さんで現在は、62歳!

内海桂子さんが長生きの理由は若い旦那さんのおかげなんでしょうかね^ ^

24歳年下の旦那さん成田常也さんとの出会いも素敵な出会いでした。

内海桂子さんは戦前生まれで、日本の漫才文化を築き上げてきた一人でもある内海桂子さんの人生と旦那さんである成田常也の馴れ初めや、子供さんについて調べてみました。

では、さっそく♪

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内海桂子さんのどんな人?

内海桂子さんの人生は波乱万丈な人生です。

生まれは1922年で大正11年の戦前生まれで、激動の時代を生きて来られています。

内海桂子さんの両親は駆け落ちして内海桂子さんは生まれ東京浅草で育ちます。

しかし、関東大震災に見舞われ父親が蒸発し、家計を助けるために、自ら小学3年生で小学校を辞め丁稚奉公に出ます。

5年の奉公でした、奉公先の息子に頭に怪我を負わされ1年で終わって帰ってきます。

そして、お母さんから三味線を習うように言われ、自分で月謝を払い三味線と踊りを習いに行き芸を磨きます。

三味線と踊りができるようになり、それを知った芸人に声をかけられ、その後地方巡業の興行に加わるようになりました。

その頃、高砂家と志松・雀屋〆子の〆子の夫婦漫才をされている芸人の嫁が妊娠したため「相方になってほしい」と言われピンチヒッターとして相方を務めます。

当時の夫婦漫才は、嫁が三味線を弾き相槌を打つだけの漫才でしたが、内海桂子さんは三味線は弾けるし、機転が利き物怖じしない性格だったため、ネタをふったりツッコミを入れたりして、従来の漫才より受けに受けたそうです。

当時のサラリーマンの給料が20円でしたが、内海桂子さんは35円と活躍されていたのがわかりますね。

ピンチヒッターでしたが、コンビは順調で数々の演芸場から声がかかるように地方巡業をすることになりました。

しかし、地方巡業となると演芸場に寝泊まりすることもあり、奥さんの妊娠で代役でコンビを組んでいた高砂家と志松との間に子供ができてしまいました。

地方巡業で洗濯やあれこれ世話を焼くうちに関係を持ってしまったそうです。

当時内海桂子さんは19歳で、男女のことなどわからずに自分でもどうしていいかわからずに誰にも相談できずに悩みましたが、ひとりで出産することを決めました。

そして長男を出産されます。

しかし、夫婦漫才の奥さんの妊娠の代役でコンビを組んでいいましたので、当然相手には奥さんも子供います。

と志松の奥さんが、家に乗り込んできて「子どもまで生んで、亭主を奪った」と責められましたが、母親は「だまされたのはこっちだ。ひとまわりも年上のとし松に手をつけられ、子までつくらされた」と言い合いになり、それを見ていたらバカバカしくなって、内海桂子さんはコンビを解消し、子供をひとりで育てる決意をされます。

その後、戦争が激しくなり戦地の慰問に行くようになり、満州や河北省を回ります。

その当時に、またコンビ組むように頼まれその芸人の元相方も奥さんで病気療養中でした。

内海桂子さんはコンビを組むようになり、相方である林家染芳さんの奥さんが亡くなり、師匠筋に「染芳さんと結婚したらどうだ」とすすめられ長女を出産されます。

そして、日本が敗戦になり、漫才の仕事がなくなり、さらに旦那さんは、賭博にのめり込みヒロポン(覚◯い剤)に手をだし、働けなくなり内海桂子さんは団子を売ったりキャバレーで働きながら家計を助けます。

日本も復興されてきて、漫才ができるようになった頃には、旦那さんとは別れていたそうです。

長女の父親の林家染芳さんとは、結婚の届けを出されていましたが、戦後のゴタゴタで受理されておらず、未婚のままだったそうです。

新しい相方をと紹介されたのが、夫婦漫才荒川小芳・林家染寿の娘で、当時まだ14歳だった吉江さんでした。

内海桂子さんは、自分が舞台に関わった年齢と同じ年の吉江さんとは、頼りなく思い、家族を養わないといけないことから一度は断りましたが、考え直し弟子として内海桂子・好江としてコンビを組みました。

内海桂子さんは、三味線も踊りもできなかった好江さんに、鬼のようなシゴキで仕込み、好江さんもそれに答えるべく血の滲むような努力をされました。

そして内海桂子・好江のコンビは48年間、好江さんが亡くなるまでコンビを続けました。

内海桂子・好江コンビも中々波乱万丈なコンビで、長くコンビを組むうちに確執などもあり、ギャラの配分などで解散騒ぎになったり、漫才コンクールで優勝が叶わなかったときに、内海桂子さんは頭にきて「お前さんが下手だから落ちたんだ!」と言ってしまい、好江さんが睡眠薬自殺を図ったことなどもあったそうです。

内海桂子・好江コンビは、認められ数々の賞を受賞し、紫綬褒章も受賞されています。

その後、内海桂子さんは、現在の旦那さんである成田常也さんと出会い結婚されます。

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内海桂子さんと旦那さん成田常也さんの結婚の馴れ初めは?

成田常也さんは新潟生まれ実家は魚屋の卸をされていて、年に一回、芸者さんを呼んでいて小さい頃は台所でお酒のお燗をつける手伝いをされていました。

手伝いをしているうちに、お酒の匂いや芸者さんの三味線も好きで、「内海桂子・好江」の漫才が大好きだったみたいです。

幼少期から演芸が好きだったので、浅草に?と思いましたが、30歳をすぎた頃に日本航空系の企業に務めアメリカに行かれています。

航空会社では、年に1回から2回「日航寄席」を開催されていて、成田さんは担当されていて、日本から落語さんを招待していました。

成田さんは、落語家ではなく、なぜ漫才師を呼ばないのか疑問に思いましたが、落語家はひとりですが、漫才師は2人分のギャラが発生するため、会社は落語家を呼んでいたそうです。

しかし、成田さんは「いい漫才師はいる。一度会いに行ってくる」と東京に出張に行かれました。

成田さんは、内海桂子さんにお願いしようと思いましたが、日本に出張に来られた時には、アポイントもとっておらず電話帳をみて連絡を入れましたが、連絡はつかず、好江さんに電話し好江さんの義理のお母さんから正しい電話番号を教えてもらい連絡を取りました。

企画の内容を話し、翌日に内海桂子さん会うことになりました。

二人は食事をしながら話すことになりましたが、内海桂子さんが着ていた着物めちゃくちゃいい着物着ていて好きになってしまったのです。

めちゃくちゃいい着物の着ているから好きになったのではなく、その時に着ていた着物が高級な着物で、「漫才師ってすごい着物を着るんだなぁ」っと感心したそうです。

値段が張る着物ではなくちゃんとした着物着ている内海桂子さんにコロッといってしまったのです。

コロッといってしまった、成田さんは数ヶ月ごとに来日して内海桂子さんと会うよになりデート重ねました。

そしてロスから手紙を書き続け、一年半で300通内海桂子さんの元に送り続けました。

299通は近況報告で300通目に、まだお付き合いもされていないのに、意を決してラブレターでプロポーズします。

ロスで一緒に結婚生活を送るようにと最初に提案していますが、内海桂子さんは断り、成田さんが日本に仕事を辞めて帰ることになりましたが、「帰ってくるのはいいけれど、仕事のない人とは付き合えません」と言い成田さんは日本で就職をし同居されます。

2年後に会社を退職され内海桂子さんのマネージャーになり、主夫として料理や家事をこなしています。

同居から15年した1999年に2人は出雲大社で結婚式をあげ晴れて夫婦になりました。

内海桂子さんは、最初の子供の男性には、奥さんがいて、2番目の子供の男性は、結婚の届け受理されていませんでしたので、この結婚が初婚となります。

遺産相続で息子と絶縁?

年の差24歳下の男性と結婚しされていますし、内海桂子さんは漫才師としても活躍し成功されていますので、当初は成田さんは遺産目当て近づいてきたと思われていました。

しかし、成田さんの誠実ぶりが家族に認められいましたが、長男は結婚に対しては反対でした。

長男は成田さんより5歳年上で、相続の問題で争っていたみたいです。

長男からしたら、自分の父親でもなく、年下の男性が母親と結婚するとなると財産目当てだと思ってしまいますね。

しかも、お金のことになると実の家族でも揉めてしまうのはよくある話しですね。

これが、きっかけなのかはわかりませんが、絶縁状態までになってしまったそうです。

しかし、長男はがんを患ってしまし、亡くなっています。

その時のエピソードでは、長男は成田さんに、

「母のことを頼みます」

と言われたそうです。

最終的には、長男は内海桂子さんと成田常也さんを受け入れたのでしょうね。

そして、子供に先立たれるのは、辛かったでしょうね。

内海桂子さんの子供は何人?
内海桂子さんは旦那の成田常也のために終活をしている?

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