今回は、杉山龍丸(すぎやまたつまる)さんについて調べてみます。
杉山龍丸さんは、インドではガンジー以来の偉人として尊敬されている、日本人です。
インドでは「グリーンファザー(緑の父)として、「スギヤマサン」「タツマル」と呼ばれています。
杉山龍丸さんは、砂漠化が進むインドを救った人物。
砂漠化が進むインドで、杉山龍丸さんは私財を投げ打ってインドの緑化に人生をかけています。
杉山龍丸さんは現在は亡くなっていますが、インドの独立の父はガンジーですが、杉山龍丸さんは緑の父と言われています。
日本では、あまり知られていない、杉山龍丸さんですが、「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波乱万丈伝~」杉山龍丸さんについて特集されています。
そんなすごい日本人の杉山龍丸さんについて、調べてみました。
ではさっそく!
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杉山龍丸のプロフィール生い立ちは?
名前:杉山龍丸
読み方:すぎやまたつまる
生年月日:1919年5月16日
出身:福岡県
杉山龍丸さんは1919年(大正8年)に3人兄弟の長男として福岡県に生まれています。
父親は、杉山泰道は夢野久作として活躍した小説家です。
そして祖父の杉山茂丸は、伊東博文の懐刀と言われ明治時代に政治の世界で手腕を振るった大物!
祖父の杉山茂丸さんが、海外貿易に出向いたときに欧米諸国に食い物にされている現状を見て、いずれ独立した際に国家の礎になる農業を身につけさせようと、1901年に4万6千坪(東京ドーム3,2個)土地を購入し、農園としてアジア各国から留学生を受け入れます。
特に力を入れていたのは、インドの独立運動を支援していた祖父の杉山茂丸さんは、ガンジーの弟子たちに熱心に農業指導をしていました。
しかし、杉山龍丸さんが16歳の時に、祖父と父が脳溢血で相次いで亡くなってしまいました。
16歳の若さで、祖父と父を亡くした杉山龍丸さんは、突如名家を背負うことになりました。
敬愛する祖父を失った杉山龍丸さんは、孤独に打ちのめされ中学卒業後、陸軍士官学校に入りその後、陸軍航空技術学校で軍人の道に進みます。
杉山龍丸さんは軍人になることで、満たされない思いを自分にぶつけ、寂しい心を埋めようとしました。
しかし、戦争が始まり杉山龍丸さんはかえって心の傷を大きくしなってしまいます。
杉山龍丸の戦争と戦後
フィリピンで整備隊長として特攻隊を送り出していた杉山龍丸さんは、命の尊さを踏みにじった日本軍の愚かさを、「幻の戦闘機隊」という手記を書かれています。
戦争では、ボルネオで胸部を銃で撃たれ重傷を負っています。
戦後は、元兵士の死亡記録を家族に知らせる仕事をされていました。
戦死した兵士を家族に知らせる仕事は、杉山龍丸さん自身も大変辛い仕事でした。
そのことについても、「ふたつの悲しみ」として中学の教科書などにも教材として使われたりもしています。
死亡の知らせは、伝える方も辛く苦しいもので、戦争体験は杉山龍丸さんにとって辛い体験でしたが、人間愛に目覚めるきっかけにもなったと言われています。
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杉山龍丸さんとインドでの活動
インドとの関わりは、祖父が農園で各国の留学生に農業を教えていたこともあり「アジア人々を救いなさい」と遺言とも言える言葉を残していました。
戦後、杉山農園に戻っていた杉山竜丸さんですが、知り合いから一人のインド人青年と知り合います。
インド人青年は、ガンジーの弟子でインド独立に当たって農業開発で助けたいと言ったそうです。
インド人留学生に農業を教えていた杉山農園。
その後、杉山龍丸さんは1962年に初めてインドに渡ります。
その時に目にしたのが、インドの砂漠化でした。
インドでは砂漠化が原因で、作物が育たず慢性的な飢餓が続いていました。
砂漠化の原因は森林伐採でした。
杉山龍丸さんは砂漠化を食い止めるために、ユーカリの木を植えるように提案します。
ユーカリの木は、根が深く伸び乾燥している土地の底にに流れる水を吸収し、成長が早く生命力が強い木です。
砂漠化が進んだインドの土地には打って付けの木でした。
インド政府や個人の虚力を得て寄付金なども募って植林を開始しますが、同時に旱魃に襲われ、3年間で500万人が飢餓で無くなります。
インド政府も事業を中止しましたが、杉山龍丸さんは杉山農園を売却し資金を調達しインドの為に活動を始めます。
その後、少しづつ植林事業は進み、ユーカリの木は育ち砂漠化した土地が変化し、作物が育つ土地になりました。
しかし、インドの砂漠化に挑んんだ杉山龍丸さんの活動はこれだけではありませんでした。
インドの砂漠化の根源であるヒマラヤ山脈に3千キロ続くシュワリック・レンジという砂漠の丘があり、集中豪雨で土砂崩れが起き麓の村を破壊し、砂漠化を進めていました。
世界的学者が見捨てた場所に、たった一人で挑みました。
シュワリック・レンジは全長は3千キロあり日本列島がすっぽり入る距離です。
杉山龍丸さんは農園、自宅を売却し現在の価値すると、約140億円をインドの為に使いました。
しかし、1987年に杉山龍丸さんは脳溢血で亡くなってしまします。
シュワリック・レンジに挑んんだ、杉山龍丸さんは志半ばで亡くなってしまいましたが、その意思を引き継いだインドの人たちは植林を続け、学者たちが見放し「不毛の地」と言われたシュワリック・レンジを植林により生まれ変わらせました。
この全てが、杉山龍丸さんがグリーンファザーと呼ばれることになりました。
杉山龍丸さんの意思を引き継いだ人々により現在でも緑化技術は広まっています。
しかし、こんなすごいことをされた日本人である杉山龍丸さんですが日本ではあまり有名ではありません。
杉山龍丸さんが日本で有名ではないのは?
杉山龍丸さんの活動は日本政府や企業からは協力や理解が得られずあまり知られていません。
時代は日本も戦争からの復興をしている時代で、日本国内では、自分の生活を豊かにすることに向いている時代。
日本政府や企業が協力していない個人の業績は日本では、スポットが当たらないのでしょうね。
全ての私財を投げ打ってインドでの活動に生涯を捧げた杉山龍丸は、財団法人の認可も認められることはありませんでした。
しかし、1985年に祖父と父親と同じ脳溢血で倒れ、2年2ヶ月の闘病後に亡くなった後には、無名だった杉山龍丸さんが亡くなったという記事が新聞が伝えました。
杉山龍丸さんの事務所には膨大な資料残されていて、息子である満丸さんが「いつか父のことをわかってくれる人が出てくるかもしれないと」できる限りの資料を残すために、福岡市総合図書館に3000点の資料を寄託しています。
「夢野久作と杉山3代研究会」として息子の満丸さんは活動もされいます。
杉山龍丸さんの息子さんは、福岡で現在は教師をされて、父親の活動や手記についても著書なども出されていて、祖父であり小説家の夢野久作の研究もされています。
最近では、杉山龍丸さんの活動や半生を、テレビなどで紹介されています。
最後に
今回は、インドでグリーンファザーと呼ばれガンジー以来の偉人と言われて尊敬されている杉山龍丸さんについて調べてみました。
杉山龍丸さんは、当時砂漠化が深刻なインドで500万人が亡くなったインドで全財産を投げ打ってインドのために活動されていました。
そして、見事に砂漠化を食い止め、現在でも多くのインド人から尊敬されています。
しかし、その活動は日本政府や企業からは理解や支援を受けられず、自らの私財を投げ打っての活動でした。
実際に、調べてみるまでは知りませんでした。
有名になるために、活動されていたわけではないですが、インドでの活動がもっと有名になっていても良いのかな?っと思いました。
本能にすごい偉業を成し遂げた杉山龍丸さんは日本の誇りですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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