今回は、過去に起こった三越事件に関わった、竹久みちと岡田茂について調べてみます。
この、三越事件と事件に関わった竹久みちと岡田茂について、TBS「一番だけが知っている」で事件の真相について放送されます。
三越事件は、テレビ朝日土曜ワイド劇場「家政婦は見た!」でもモチーフされている回もあります。
「家政婦は見た!」は市原悦子さんが亡くなられて、追悼特別番組としても放送されています。
本当に起こった事件で、当時は話題になった「三越事件」ですが、30年以上前の事件で覚えている人や事件を知らない人も多くなっています。
「一番だけが知っている」では当時の事件のことを知っている、デヴィ夫人が真相を初告白されています。
デヴィ夫人も事件に関与した、竹久みちさんと親交があったようですね。
三越事件の真相と、事件に関わった岡田茂と竹下みちやその後についてあれこれ調べてみました。
では、さっそく!
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三越事件とは?
三越事件はその名通り百貨店「三越」に関わる事件です。
1982年に名門百貨店三越を舞台にした不祥事で、当時社長であった岡田茂を社長解任に発展し、世間を大いに騒がした事件です。
1972年に岡田茂は三越の社長に就任し、自身に批判的な幹部を次々と左遷し、三越内部では独裁体制を確立し岡田天皇とも呼ばれていました。
1982年に当時、愛人として竹久みちは、三越内で発言力を高め「三越の女帝」と呼ばれていました。
岡田茂の強引な経営手法で、取引において映画前売り券の押し付け販売や、協賛金や派遣社員の要請、催し物へ費用負担など、納入業者に要請し独占禁止法の不公正なとりしき方法に当たるとした審決を受けています。
そして、三越日本橋本店で開催された「古代ペルシャ秘宝展」の出典物のほとんどが、ニセモノだったことが報道されました。
展示品の中には数億円と売値がついた品もあっり、老舗百貨店だけに当時大きな問題となりました。
さらに、竹久みちが経営する「アクセサリーたけひさ」にも不当の利益を与えていたり、自宅の改修費用を会社の資金を使っていた問題も一緒に発覚しています。
この問題を受けて岡田茂は社長解任へとなりました。
そして、岡田茂は社長解任後に、三越に18億円の損害を与えたとして逮捕され特別背任罪と所得税法違反の容疑で起訴されています。
岡田茂の若い頃、経歴や逮捕後のその後は?
岡田茂は1914年8月3日に生まれ京都出身です。
大学は、慶應義塾大学文学部を卒業し、三越に入社しています。
宣伝部長を経て、銀座店の店長になりヤングファッションを中心とする営業政策や、マクドナルドのテナントを入れるなどし業績を上げます。
宣伝部長時代から派手な販売戦略で流通業の革命児とも言われています。
専務時代には、日本初のテレビショッピング番組と言われる「東京はホームジョッキー」を立ち上げています。
社長就任後は、「これからは物だけ並べて売る時代じゃなくなるから、旅行、趣味、教育、医療にも目を向けろ。いずれ来る高齢化社会に備えて百貨店が他と差別化して何ができるか考えろ」と語っており、ユニークな発想も持っていました。
社長としても決断力が高く、指示は非常に早かったとありました。
独裁的な経営戦略やワンマン体制などありますが、経営やビジネスのセンスはあったのでしょうね!
三越事件において、社長解任後は逮捕され起訴されてい懲役3年の実刑判決が出され、上告しますが1995年7月20日に腎不全のため80歳で亡くなっています。
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竹久みちの若い頃、経歴や逮捕後その後は?
竹久みちは1930年に生まれで服飾デザイナーです。
本名は、小島美知子でペンネームとして「竹久みち」と名乗っていました。
旧制共立女子専門学校生活科(現在の共立女子大学)を卒業後、文化学院デザイン科を卒業されています。
在学中から銀座でヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰し松坂屋などと取引をするなど才能がある竹久みち。
テレビ各局に出演し「竹久みちアクセサリーデザインスクール」を国内初のアクセサリーデザイナーの養成を始ています。
1963年に当時、三越の宣伝部長の岡田茂と知り合い、才能を認められ岡田茂が三越社長就任後は竹久みちの「オリエント交易」は三越の大口の納入業者になり、多額の取引手数料を手に入れています。
三越本店の1階に売り場を出店させ、その後売り場面積を広げ、三越支店まで売り場を広げいていきます。
三越の社内人事にも介入するようになり「三越の女帝」と呼ばれるようになります。
岡田茂との関係は、公然の秘密で、誰も歯向かう人もいませんでした。
竹久みちに嫌われると、左遷され彼女に左遷された社員は数十人もいたと言われています。
そして、岡田茂が逮捕されたと同時に竹久みちも逮捕され起訴されています。
最高裁まで争いましたが、1997年に上告が棄却され懲役2年6ヶ月、罰金6000万円の実刑判決が確定し、刑務所に収監されています。
出所後は、岡田茂が社長を解任され、三越内での影響力もなくなり、フラワーアートオリジナルアクセサリー創作の会社を設立し自社ビルで販売を続けていました。
そして、2009年7月24日79歳でこの世を去っています。
岡田茂と竹久みちの関係は?
岡田茂と竹久みちが知り合ったのは、1957年で当時、映画「ソロモンとシバの女王」がヒットしていて、三越では映画に関連した展示会を開催していました。
当時、岡田茂は宣伝部長として展示会を仕切っていて知人の紹介で竹久みちと知り合っています。
岡田茂は常に、アンテナを張っていて時代を読むのが得意で、一方の竹久みちは宝石業界の情報通だったため、二人は親しく付き合うようになりました。
竹久みちは、「この人こそ、将来の社長になる」と確信していたそうです。
そして親しく付き合うようになった二人は、肉体関係を持ち愛人関係に。
竹久みちは、岡田茂に「あなたは絶対、三越の社長になれる人よ」と言っていました。
竹久みちの読みは的中し、岡田茂は三越社長に就任し竹久みちも三越内で勢力を伸ばしていきました。
三越に並ぶブランドの70%が竹久みちが経営する「オリエンタル交易」や「アクセサリー竹久」を通じて入り、仲介手数料が支払われていました。
三越での多額の収益で、竹久みちは副業にも乗り出し、六本木に自社ビルを構えその一角で、クラブ「クレオパトラ」をオープさせています。
しかし、竹久みちが私腹を肥やしている一方で、三越の経営状況は悪化し、昭和56年度末には、1150億円の在庫を抱えていたそうです。
刑事訴追後は、気力が無くなった岡田茂に対して、竹久みちは刑に服した後も自身の潔白を主張し著書なども出版しています。
三越事件はドラマや映画のモチーフになった!
デヴィ夫人との関係は?
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