秋元正博(スキージャンプ)2度の事故で地獄を見た!?過去に選挙に出馬し今現在は葛西紀明が憧れた消えた天才?

今回は秋元正博(あきもとまさひろ)さんについて調べいてみます!

 

秋元正博さんはスキージャンプのレジェンド葛西紀明が人生で最も影響を受けた悲劇の天才ジャンパーとして「消えた天才」で紹介されます。

 

秋元正博さんは、今ではスキージャンプ のレジェンドと言われている葛西選手より、女子スキージャンプの高橋沙羅選手よりも国内で優勝されている天才ジャンパーだったそうです。

 

「消えた天才」では、衝撃のアクシデントで表舞台から姿を消した天才として秋元正博さんが紹介されています。

 

衝撃のアクシデントが気になり秋元正博さんを調べてみると、過去にアクシデントというより衝撃的な事故がありました。

 

しかも、秋元正博さんは出身地である北海道で選挙に出馬していたりと、色んなことがわかりました。

 

スキージャンプのレジェンド葛西紀明さんが天才と認め人生で最も影響を受けた天才がなぜ消えてしまったのか気になりましたので調べてみました!

 

では、さっそく!

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秋元正博(スキージャンプ)のプロフィール

 

まずは秋元正博さんのプロフィルですね!

 

名前:秋元 正博(あきもと まさひろ)

生年月日:1956年9月3日 

出身:北海道札幌市

学歴:北海道岩見沢緑陵高等学校 明治大学政治経済学部卒

所属:現役時代は地崎工業(現岩田地崎建設)に所属

 

秋元正博さんは北海道札幌市市出身です。

 

秋元正博さんは、1970年後半から1980年代にかけて活躍されたスキージャンパーです。

 

試合通算88勝は世界記録で社会人68勝されいて、ーズン15勝(うち11試合連勝)されています。

 

秋元正博さんは、スキージャンプ競技についてはあまり知りませんでした、秋元正博さんは日本のスキージャンプを語る上で、かなりの存在でした。

 

スキージャンプを始めたきっかけは、2歳上のお兄さんがスキージャンプをされていて、秋元正博さんも始めたのがきっかけと言われていました。

 

秋元正博さんは、札幌オリンピック以降、日本のスキージャンプ界が低迷していたのを打破した立役者とも言われていました!

 

秋元正博さんは、1980年のレークプラシッドオリンピック70m級のスキージャンプに金メダル候補として期待されていていましたが、惜しくも4位になってしまっています。

 

練習のジャンプでは、圧倒的な距離を出していて誰もが金メダルを取ると言われていましたが、本場のジャンプは2回とも失敗に終わりわずか0,7ポイント足りずに4位になっています。

 

このポイントは、後50cm遠くに飛んでいいたら距離点が0.8ポイントを足され銀メダルになっていたそうです。

 

その後の90m級ジャンプにも出場されていましたが、トライアルジャンプでは115mの大ジャンプで好調でしたが、本番ではまたしても結果を出せず10位で終わっています。

 

悔しい結果を残してしまった秋元正博さんですが、その後3月にストラブスケプレソ(チェコスロバキア)でのワールドカップの90m級で日本人初の優勝で日本国外での快挙を成し遂げています。

 

秋元正博さんは1984年のレークプラシッドオリンピックではメダルを逃してしまっていましたが、その後のサラエボオリンピックを目指していましたが、1982年秋元正博さん26歳の時に死亡交通事故を起こしてしまっています。

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秋元正博(スキージャンプ)過去の交通事故!

 

秋元正博さんは、サラエボオリンピックを2年後に控えた頃に、地元北海道瀬棚町を運転中に死亡交通事故を起こし逮捕されていました。

 

この死亡交通事故の影響で、1年間の試合室場停止処分となってしまい、翌年のサラエボ五輪シーズンでは、国内の試合のみに限って出場が許されていましたが、サラエボオリンピック出場は、文部省の圧力などがあり自らオリンピック出場を辞退されていました。

 

交通死亡事故を起こしてしまった秋元正博さんは謹慎処分中は毎日座禅に通い、当時の会社も復帰に向けて取りはからい、亡くなった遺族からも嘆願書が出されていて1年後に現役復帰ができ、国内大会の条件付きで復帰されています。

 

国内の試合では秋元正博さんは意地を見せつけるように、シーズン当初から優勝し上位をキープしましたが、サラエボオリンピックは出場を自ら辞退されています。

 

この辞退については、スキー連盟、JOC、文部省などの筋から圧力があったと言われていますが、秋元正博さんはその後一切何も喋らず口を閉ざしたまま話されていないそうです。

 

サラエボオリンピックの出場を辞退された秋元正博さんですが翌年の1985年の大倉山でのワールドカップ札幌大会に出場され1本目7位のスタートでしたが、世界の強豪が次々と失速する中、見事に優勝されています。

 

復活の兆しが見えた秋元正博さんでしたがまたもやアクシデントが起こってしまいます。

 

秋元正博(スキージャンプ)フライイングジャンプでの事故

 

1986年にオーストリアのバートミッテルンドルフ行われたスキーフライング世界選手権に秋元正博さんは出場されています。

 

スキーフライング選手権に出場された秋元正博さんは、1日目の2本目に横からの突風にあおられ、空中で大きくバランスを崩し大転倒され左足首を複雑骨折という重症に見舞われてしまいます。

 

秋元正博さんはランディングバーンにたたきつけられ、自動車の衝突実験などでみられる人形のように叩きつけられ、不自然にねじ曲がった手足のまま滑り落ちて行ったそうです。

 

その大転倒の結果、日本でしばらくの間「ジャンプは危険なスポーツ」と言われ偏見がつきまとったと言われています。

 

秋元正博さんは足首の複雑骨折で、競技継続が絶望的とされていましたが、執念のリハビリで翌年には復活されています。

 

1年後、再起を賭けて挑んだジャンプで50m級の台でしたが、秋元正博さんはスタートまで40分かかって飛び、その後のインタビューで「ジャンプは危険なスポーツではないよとちびっ子に伝えたくて、、、」と言われたそうです。

 

自身の転倒によってスキージャンプが危険なスポーツと言われてしまうなんてとても辛かったでしょうね。

 

秋元正博さんは怪我から復活され、その後も好成績を残しますが1988年のカルガリーオリンピックのメンバーに落選され、翌年原田雅彦さん、葛西紀明さんと入れ替わるように現役を引退されています。

 

葛西紀明さんの才能をいち早く見抜いたのも秋元正博さんなんだとか?

 

スキージャンプ界では今でこそ葛西紀明さんが「レジェンドカサイ」と呼ばれていますが、元々はヨーロッパで、スキー板よりも身体を前に放り出す深い前傾姿勢から「カミカゼ カサイ」と言われていて、秋元正博さんも、チェコで開催されたワールドカップで優勝して「カミカゼ アキモト」と呼ばれていました。

 

秋元正博さんが現役から退いた直後に葛西紀明さんが活躍されているとは、運命的なものを感じる2人ですね!

 

現在は、スキージャンプを引退されていて、その後が気になっていましたが、2005年になり選挙に出馬されていました!

 

秋元正博(スキージャンプ)新党大地で選挙に出馬!

 

秋元正博さんは、2005年に新党大地の副代表に就任されています。

 

そして、第44回衆議院議員選挙に北海道1区から出馬されていますが落選されていました。

 

しかし現在の新党大地のホームページなどには、秋元正博さんの名前はなく、政治活動はされていない様子です。

 

秋元正博さんは、明治大学政治経済学部を卒業されていますので政治に関心はあったのかもしれませんね。

秋元正博(スキージャンプ)の現在は消えた天才に?

続きは次のページへ

 

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